日記っぽくどうでもいいことを

まあ毎日つけてるわけではないから日記ではないですけど、だらだらと日記っぽく行ってみましょうか。
つか、ぼくはココにモノを書くことの敷居を下げた方がいいですしね。
というわけでテレビを見て思ったことなどを・・・・・・。
爆笑問題の太田が総理大臣になるという番組があるじゃないですか。アレを今日一部見たわけですけれど(日ハム戦を気にしつつ)、「(教師の)体罰を認めるかどうか」というやつですけれどね。いわゆる「主張」みたいなことはあまりこの日記ではやらないことにしていたのだけれど、今日は軽い気持ちでやってみましょう。番組では結局体罰反対派が体罰容認派に勝ちましたけれど、視聴者へのリアルタイムアンケートでは8割程度の視聴者が体罰に賛成してましたね。
ぼく個人としては体罰には賛成ではないです。
少なくとも、オフィシャルに認めるものではないだろうという考えです。
つまりアンオフィシャルにやれと。
もちろん教師が生徒からの暴力に対して抵抗する権利はあるでしょう。でもそれは「攻性」であってはならない。オフィシャルにはね。
ルールはルールで厳然と暴力を否定しなきゃいけないでしょう。
でも、世界や社会あるいは人生ってのは、そもそも理不尽なものでそれは「動物的世界」でしょう。それに対し、条理的で努力が反映されるような考えが「人間的世界」で、ルールってモノは人間的世界の産物。暴力は動物的なもので、ルールにおいては原則的に暴力は否定する。そういう考え方です。
もちろん動物的世界と人間的世界は境界なんてありません。人間は動物ですしね。しかしルールをルールとして機能させるためには原則がなければダメでしょう。原則はオフィシャルなモノです。
ぼく個人は体罰などが「有効ではない」と考えているわけではありません。そんなものそれぞれの局面で個別に対応しなければならないと言うしかないでしょう。暴力が有効な子供がいれば、暴力が無効な子供もいるし、また、暴力が有害な子供もいれば、暴力が無害な子供もいる。どういう対応が最適かなど言えるものではない。例えばぼく自身は甥っ子をはたいたりするし、その親である姉に対し、なんで無理矢理言うことを聞かせないかなぁ、と思ったりします。でもそれは公に推奨することじゃない。
まあ結局言ってることはダブルスタンダードでやれみたいなもんではありますけれどねw
体面と実態は違うじゃねえか、と子供は思うものです。そうやって子供は不条理な世界=社会を学んでいくのです。
個人的には自覚あるダブルスタンダードの方が、愛情の込められた体罰などという信仰よりはマシだと思うのですがね。ぼくは「これは愛情なんだ、お前のためなんだ」なんて言われながら殴られたら本気で頭にきますよ。
暴力は常にアンオフィシャルで理不尽なものだと思います。逆にそれがゆえに暴力は効果を持つのだから。
しかしまあ、本当最近の親や家庭ってこどもへのしつけが足らないというか親自体がしつけがなってないですよねえ。24時間営業のスーパーで遅い時間に子ども連れがいて呆れたりしますし、また子供も売り場で野放図だし。あと子供を持ってる友人とかにも正直、ちょっとあなたお子さんへの躾それでいいんですか、と思うし。自分が親だったらこの子供殴ってるなとか思う時がありますよね。そう思うにつけ、僕の親が自分でなくてよかったと思うのであります。だって殴られたら痛いじゃん。ぼうりょくはんたい。


ところで、この番組を見て思うのは、爆笑問題太田光はなぜこういう番組をやるのか、ということですねえ。
太田はこういう番組をやって、ああいうキャラであんな風にやったらどうなるかってことは分かるはずでしょう。
実際どこかで、あの番組やってて特なんてひとつもない、むしろ人気は落ちる一方、みたいなことを言ってたし。
よくもまあこんなムチャをやるよなあ。
これまで太田が書いてきたような毒たっぷりのモノを書いていけば人気もさほど変動はなく、また社会批評性も保たれたのに、と。いや、実際すごい不謹慎ネタでしたよ。オウムネタとかひどかった記憶がある。これはまずいだろう、と読んでて思ったのもあったくらいだし。そこにはティピカルな左翼性はなかったと思う。しかし、太田の今のこの「芸風」。
太田は一体どういうつもりでこの番組とこの芸風をやっているのかねえ。
まあ色々考えていることはありますが、めんどくさいから書くのはこのくらいにしておきますか。