どくしょかんそうぶん

新城カズマ サマー/タイム/トラベラーを読んだ。

サマー/タイム/トラベラー (1) (ハヤカワ文庫JA)

サマー/タイム/トラベラー (1) (ハヤカワ文庫JA)

読むきっかけは東浩紀氏のブログで取り上げられていたから、というなんとも主体性も知性もないものです。そもそもぼくはSFに興味がない。SF小説のイメージすら湧かない。
ということで買ったのは、えーいつだったカナ。・・・・・・ヘタしたら去年かもしれない。まあ、その時期は忙しかったのでヒマになったら読もうと思って買ったのデス。だがしかし、エロいラノベしか読む気力がなかったバカなぼくは結局ヒマな時期に読まずに6月までずっと積ん読状態だったのでした。
んで、読みました。
ていうか読んでる最中に「ああ、これは傑作だ。オチがどうであるかはわからんが既に傑作だ」と思いましたよ。
読みはじめこそいささか読むのが苦痛でしたが、しかしすこし進むと、あれよあれよと目が文章を追っていく。そして口元がにやりと釣りあがってしまう。いや、本当にこういうのを文章が巧いというのだな、と思った。なんていうか「本読み」が思わずにやりとしてしまうようなレトリックに彩られている。随所に作家の余りある引出しから固有名詞や文体などが出てくる。そしてなんともセンチメンタルだった。読んでいて悲しさや切なさやある種の郷愁のような感傷的な気分が度々湧きあがった。そう「なつかしさ」すらあった。だからか「ブックオフ」や「アマゾン」などの固有名詞が出てくると、あるいは時事ネタを見かけるとその度ぼくは少々混乱した。
 そして、この小説を読んでいてぼくはどこか安心した。それは愚かなことかもしれない。この小説は頭のよい高校生たちの物語だ。そして読む限り確かに登場する高校生たちは頭はいい。既に様々なことを知っている大人の作家が書いているのだから当然かもしれないが、しかしいくら大人でもバカに頭のいい高校生は書けない。(とはいえ高校生にしては頭が良過ぎる気もする。あるいは単にぼくがバカだったからなのかもしれないが。え、現在進行形でバカだろって? うるさい)その頭のよい高校生たちが抱く悩みのようなものや感傷のような気分が自分にも理解できるものであることが、ぼくのような頭の悪い人間とも共通していることが、あるいはそのように感じられることが、なんともぼくを安心させるのだった。
例えば次のような一文

――そしてほんの一瞬だけ、ひどく哀しい気分になる。
それは以前にも幾度か感じたことのある、例のやつだった。例えば、とても素敵な歌を耳にして、歌詞に描かれた情景がけっして現実のものではないと気付いた瞬間・・・・・・その曲の中に自分はけっして入ることができないのだと悟った時と同じ、あの感触だ。

また、次のような一文に

ぼくは理解した。そして体が震えた。
(中略)ぼくが何も知らないということ・・・・・・にもかかわらずコージンの生活がそこにあるということ・・・・・・ぼくらとは関わりのない、彼だけの時間と空間がそこに厳然として存在しているということ・・・・・・それを初めて実感したからだ。

ぼくはひどく安心した。
もちろんこれは作家が抱いた感情であることを単純には意味しないし、それに素直に同一化するほどぼくも能天気ではない。とはいえ、どこかこの頭のいい人たちと自分が地続きなのかと感じさせるのも事実で、・・・・・・そう、ぼくはなにかの「保証」を得た気分にすらなったのでした。
そして、最後に、いや、なんでしょう、まさか「ギャルゲー」なんていう単語が出てくるとは思いませんでしたよ。まあ、読んでない人のために詳しくは書かないけど。涼はいいやつだよ。間違いない。しかし、どこにそんな時間があるのか、本当に不思議だよ。小説を読んで、ゲームをやってその他にもいろいろやって生活しているんでしょう?頭のいい人たちはみんな速読ができるのかね? 僕は速読なんてできないし、やろうとも思わないけど。
そんなこんなで2巻はまだ読んでません。もう買ってはいるので近い将来読みます。
本当素晴らしい小説でした。